目を覚ませ僕らの世界が何者かに侵略されてるゾ〜これ

こんばんは

 

今日もひとつ気づいたことあったから書き残してこうと思う。

積み残しが多い今日この頃。

 

うちの母親はズルい。なにかお願いするときは誰かがそうしてほしいから、とか、あなたのためだから、とかいう言い方をする。それを間に受けた僕がバカだった。結局は祖母と対立するのを恐れて、祖母に迎合してる。で、何かあったらあんたが悪いと言う。または、お母さんのせいだ、と同情を誘う。一人称が、ない。

でもこれが人の弱さなんだろうな。僕も同じようなことするし、その度に自己嫌悪する。許せないけど、自分のことを思うとそういうものかもしれない。母親も僕も弱い部分はあるということよ。

 

 

ほんでね、2連休だったけど、どんだけ休んでも毒が抜けない感じするんだよね。

なんでだろうと考えると、無性に寂しい気持ちになっていた。とにかく人と繋がりたい気持ちだった。この世でひとりぼっちのような気分。

この感じは前からあったんだけど、テレフォン人生相談で、寂しさから逃げないでください、と加藤先生がおっしゃってたのを聞いて、言われてみれば寂しさと向き合うってどういうことだ?って思った。

やっぱり入口は、自分は寂しいと認め、感じることだと思う。ごまかしたり逃げても寂しさは絶対になくならないのだ。

今までどうしてきたかってーとね、ウソをついたり、仲間が集まってお互いに褒めて傷を舐めあったり、愛想笑いしたりして、お腹が空いたらご飯を食べるように、その場限りの消化をしてきたんだと思う。

 

寂しさを満たすには、自分の存在を許してもらうことじゃないのかなって思う。まだよくわかんないけど。

 

僕が前の仕事を辞めたくなって、苦しかった去年の冬に、地元の友達にスノボーに連れてってもらった。

僕はスノボーがうまくできないし、全然楽しくないし、そのときは特に自分のことが大嫌いで、友達といるのも苦痛でしかたなかった。こんなどうしようもない人間がいたら迷惑だよねーとか自分で自分を心の中で突き放して、ふてくされてた。写真もすげぇブサイクな顔してた。

ほんでね、他の友達は僕を置いて滑りに行くけど、1人だけ僕の前に座ってくれてた友達がいてね。どう考えても滑りたい人だと思ったんだけどね、1人でいる僕に話しかけてくれてたんだよね。なにより黙って座ってる時も、友達がどう思ってたかは別として、なんだか見守られてるような感じがして、その時のことを思い出すと、うれしくてたまらなくて、ありがてぇなぁって思った。あの一瞬僕は1人じゃないって思えたように思う。

寂しくない状況はきっとそんな感じだ。

 

結局家族に期待しても寂しさは満たされないと思う。それは家族が悪いんじゃなくて、僕の価値観が変わってしまったから。

寂しいことは認めて、これから寂しさを埋めていけるように自分から手を伸ばしていかなきゃって思う。

そのためにはいい顔をしないこと。人目を気にしないこと。ウソをつくからさみしくなる。愛想笑いをするから虚しくなる。

寂しさを埋めるため、人とつながるためって思えたら、それは希望だし、やってみようという気持ちになれる。

声が震えても言葉にしようじゃないか。

寂しい心がスタート地点でいいよね。

それが素直ってことではないか。

 

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おやすみ!